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    かけはし2021年3月1日号

便秘よもやま話


沖縄報告 2月21日

沖縄基地の全国比率を50%以下に

沖縄 K・S

2月16日、玉城知事が沖縄県議会で発表

 来年は沖縄の本土復帰50年を迎える。玉城デニー知事は復帰50年を迎えるに当たって、沖縄駐留米軍基地の現在の比率70%を50%以下にするという当面の目標を発表した。2月16日の沖縄県議会定例本会議で、今年度の県政運営の所信を表明した中で、玉城知事は、県議会でこれまで二度沖縄の海兵隊の撤退をはかることを全会一致で決議していることを重く受け止め、米軍専用施設の比率を全国の50%以下にすることを目指す、と述べた。
 玉城知事の提起に対し、地元2紙などから、「あいまい」「具体策が明確でない」「海兵隊の撤退を自らの言葉で語っていない」などの批判があがっている。現在全国の米軍専用施設の70%を占める沖縄基地の比率を50%以下にしようとすれば、沖縄の米軍基地を面積で70%を占める海兵隊の撤退を実行する以外ない。
 沖縄県基地対策課の2018年発行の『沖縄の米軍基地』によると、2017年3月31日現在の日本全国の米軍専用施設の面積は約2万6400ヘクタール、沖縄は約1万8600ヘクタール、沖縄以外の日本は7800ヘクタールである。沖縄の海兵隊の面積は、米軍基地全体の70%、約1万3100ヘクタールを占める。沖縄の海兵隊がなくなれば、沖縄の米軍基地は約5500ヘクタール、全国比率で40%余りまで落ちる。沖縄の米軍基地面積の25%、約4600ヘクタールを占める嘉手納基地と弾薬庫をなくしても、沖縄基地は約1万4000ヘクタール、依然として全国の比率で約64%を占めることになる。海兵隊以外のすべての基地をなくしたとしても、約63%。したがって、比率を50%以下に落とすためには海兵隊を撤退させる以外ないのだ。
 全国の国民は真剣に考えて欲しい。あの巨大な嘉手納基地と弾薬庫をなくしても、沖縄には依然として全国の米軍専用施設の約3分の2が残るのである。沖縄の海兵隊には、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンなどと、沖縄戦で命を落とした米兵の名前が付けられている。なぜか。米軍は沖縄を米兵の犠牲の代償に獲得した「戦利品」と考えているのだ。戦争と軍隊によるこうした悪弊にもう終止符を打とう。戦後76年を迎えてなお、沖縄を対米戦敗北のいけにえとして提供したままでいいのか。日本の国の在り方として正しいのか。対米従属の戦後政治をいつまで続けるのか。沖縄基地を全国の50%以下にすることを目指す、という玉城知事の発表は、全国の国民の感性に素朴に働きかける沖縄基地問題の提案であり、現状の打開を求める沖縄の切実な要望なのである。この沖縄からの提起を全国で真剣に受け止め、議論してほしい。

頻発する米海兵隊の低空飛行訓練


 昨年来の米軍機による沖縄各地での低空飛行訓練は今や常軌を逸している。この航空機はMC130特殊作戦機であり、嘉手納空軍基地に約10機常駐している。慶良間諸島の座間味村の宮平賢さんは、タイムスの論壇で、「標高45mの展望台から見通した1km離れた無人島の標高51mの山影の中腹あたりから機影は現れる。つまり、30〜40mの高度である」と書いている。辺戸岬でも目撃者は「これまで見たことのないくらいの超低空だった」と語っている。国頭村の辺土名小学校の2階の窓から見ていた小学生も「ほぼ目線の高さだった」と話している。2月18日、航空機の高度や位置情報を表示するサイトでMC130の航路を確認した琉球新報の記者によると、100フィート(30m)以下の高度が数回確認されたという。
 145万県民の暮らす沖縄各地でのこの危険な超低空飛行に対し、米軍は「高度など飛行情報は作戦保全上の理由で公表しない」と述べ、菅首相は「訓練は重要」と述べ、岸防衛相は「日米合意を守って訓練していると米軍から説明があった」と述べる。県民の安全など眼中にない米軍と米軍の太鼓持ち・日本政府。日本の国家権力を掌握する人たちは米軍に従属し追随することに自らの利益を見出す戦後の支配層である。彼らが国家権力を掌握する限り、この不幸な政治の構図は変わらない。
 なぜ米軍は沖縄各地でこのような超低空飛行訓練を強行するのか。それは、米軍が沖縄の島々を戦場に見たてているからに他ならない。来たるべき中国との軍事対決において、米軍は沖縄の島々が戦場になることを前提に作戦を立て島嶼攻撃の実戦訓練を続けているのである。そして日本政府は米軍の動きを容認し、自衛隊を投入して米軍と一体となる軍事政策をおしすすめている。ここ数年急ピッチで進む「南西諸島」〜与那国・石垣・宮古・沖縄・奄美〜の自衛隊基地・ミサイル基地建設は沖縄の島々を舞台として米軍のもとで行う対中戦争計画以外の何物でもない。
 人ごとではない。国民は、自分たちの政府が何をしているのかということについてもっと関心を持ち、誤った国策を止めるために声をあげるべきだ。

辺野古、安和、塩川、海上―監視と抗議の現場

 辺野古新基地こそ、米軍と自衛隊との共同行動の拠点となることがこの間明らかになった。新基地建設・埋め立てに反対する現場では、連日監視と抗議の行動が続いている。辺野古・大浦湾の埋め立て工事現場と本部半島の土砂を積み出す琉球セメント安和桟橋と本部塩川港では、沖縄防衛局と業者が埋め立てに懸命になっている。しかし、今週は海が荒れたことが一因となり、本部塩川港からの積み出しは金・土の2日しかできなかった。
安和桟橋の方は火曜を除いて搬出が行われたが、金・土は、外からのダンプの動きはなく、桟橋構内にため込んだ土砂の運搬船への積み込みが行われた。
辺野古・大浦湾では、毎日、当日の天候やガット運搬船の空き具合などと関連しながら、運搬船の出入り、ランプウェイ台船への移し替え、デッキパージ船への備蓄、ランプウェイ台船からK9、K8護岸への接岸とダンプによる運搬という埋立の一連の過程と共に、護岸のコンクリート打ち、消波ブロックの設置が進められている。20日土曜日には、8隻もの運搬船が大浦湾に押し寄せた。
破綻した埋め立て工事を続ける政府防衛局の行政の惰性の歯車を止めなければならない。辺野古のキャンプ・シュワブゲート前、琉球セメント安和桟橋ゲート前、本部塩川港構内では、連日小規模な監視・抗議行動が貫徹されている。コロナ感染防止の緊急事態の中で現地行動の規模が縮小されているが、防衛局の埋立変更申請に対し許可を与えない県行政と連携して、再び新基地NO!・埋立ストップ!の闘いを現場と地域でつくり上げていかなければならない。沖縄には絶対に新しい米軍基地はいらない。われわれは負ける訳にはいかないのだ。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(45)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。今回は、国策の開拓移民で中国広東省に渡り、現地で召集され、日本の敗戦と共に強制送還された東風平町の神谷さんの証言である。
引用は原文通り、省略は……で示し、補足は〔 〕に入れた。
詳しくは、南京・沖縄をむすぶ会、沖本裕司編著『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』をご覧いただきたい。

東風平町史『戦争体験記』(1999年発行)

神谷栄一


「中国南支開拓家族移民団」

 私達家族六名は日本政府の計画で中国開拓移民大募集に応じて、富盛〔ともり〕から第二次移民として四家族が参加した。沖縄全島から、羽地〔はねじ〕・大宜味〔おおぎみ〕・美里〔みさと〕・嘉手納〔かでな〕・大里〔おおざと〕・佐敷〔さしき〕・玉城〔たまぐすく〕・小禄〔おろく〕・東風平〔こちんだ〕・国頭〔くにがみ〕・久米島〔くめじま〕の具志川、合わせて十二か村からの移民団であった。
当初、先発隊として一家の働き手である戸主が行って、移民先での家づくり、農耕地の開墾をして後に家族が行くようになっていた。そのために父は一か年先に出発していた。……
港に着くと、トラックに分乗して山を越え谷を越えてやっと父が開いた新天地の我が家へ着いた。広東省中山県三壮島千歳村第七号という、我が家の住所だった。島は島尻郡位の広さのようだった。
父の開いた土地は広大でその苦労のあとがしのばれた。……
忘れもしない、昭和十九年末期に突然私達親子に召集令状がきた。常々気にしていた事であったが、とうとう来たかと親子共々に心の動揺は隠しきれなかった。当時、父は四十三才、私が十八才だった。移民団の中から数十名が同時に召集されていた。親子召集されたのが私達含めて三組もあった。
召集兵は、追い立てられるように大発船に乗せられ広東の街に上陸させられた。兵舎に着くや否や早速、内務班で厳しい軍事訓練が始まった。ここでの教育は一か月で終わって、急きょ上官から「君達に転属を命ずる。君達は島を守って欲しい」という事だった。「ああ島に帰れるんだ」とみんな喜んでいた。島に残された妻子も、お父さんが近くにいるんだという事で、安心するであろう。間もなく私達隊員は島に戻って来た。
島では、各中隊に入隊して、数日間の軍事教育を受けた。教育も一時的なものでその後は防空壕掘り、又山林に行って防空壕の坑木の切り出しとその運搬にあてられた。やる事なす事は毎日朝から夕方まで同じ事の繰り返しであった。まるで奴隷同然である。
移民のねらいは食料を増産して軍に供給することにあったが、戦争遂行上食料増産は二の次に回された。
当時の兵士を見ると体中真黒になり、やせ細って目玉だけがギョロギョロしていた。私達も苦労はしたが、一段と兵士達は気の毒であった。何しろ食事といえば麦飯に乾燥魚と水のような御汁であり、厳しい壕掘りにこんな食事ではたまったものではない。だから兵隊は栄養失調からくるいろんな病気で次々と倒れていった。こんな状態で戦争に勝てるわけがないと私は思っていた。
終戦も数か月に迫った頃、私も体力が衰えたとみえて、悪性のマラリアにかかってしまった。マラリアは弱った人に罹るようだった。……
それから、幾日か過ぎて終戦の声を聞いた。私達家族と又富盛の三家族共に、一生をこの地三壮島に永住するつもりでいた。当地は土地も肥えているうえに水も豊富であり、果樹類や魚介類も豊かなところである。気候風土も沖縄と変わりなく、とても生活しやすい島だったからである。又、中国の一大都市広東や香港、マカオも隣接しており、何も故郷沖縄の事は考えてなかった。
ところが、ここはもともと中国領土であった。戦争で日本人が分捕った土地である。戦争に負けた日本国民がここにいる事が出来ずに、昭和二十一年八月、日本の無条件降伏一年後に強制送還された。我々が島を離れようとした時、支那軍が島に乗り込んできた。この時の支那軍の指揮者が日本人であった。



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